芸術監督:ボリス・コラロフスキ
音楽監督:ラドミール・ゲレフスキ
舞台監督:ユフテスキ・ブレイズ
監督助手:ローリンツ・ライオシュ
ジョルフィ・ゾルタン
照 明:テイク・ワン
音 響:ビデオテクニカ
バ ス:駒 形 利 晴
デザイン:山 田 哲 郎
制作助手:増 永 和 子
制 作:増 永 哲 男
マケドニア国立タネツ民族舞踊団
FOLKLORE REPORT 165
MACEDONIAN STATE ENSEMBLE
OF FOLKDANCES AND SONGS "TANEC"
ТАНЕЦ МАКЕДОНИJА
民俗音楽、民俗楽器、民俗衣装、民俗舞踊にはそこに住む人たちの文化があります。永い知恵と汗で作り上げたその文化はそれだけで芸術かも知れません。それらに触れたとき、そこに住まない人たちも、何の知識を持たない子供たちまでも拍手を繰り返すのは、人の普遍的な価値がそれに存在しているのかもしれません。そしてこの芸術は老若男女一緒に手をとって楽しめることが素晴らしいと思います。
旧ユーゴスラビア時代にはコロー舞踊団にも勝るセルビアの踊りや、ボスニア、ツルナゴラ、クロアチア、スロベニアのバラエティに富んだレパートリーがたくさんありました。そして、なによりにもまして、アルバニアの踊り、トルコ人の踊りが素晴らしくて忘れられません。これらの踊りもタネツに希望いたしましたが、タネツは文化省直属の国立民族舞踊団であるため、その政策意向に沿わなければならないこと、そして彼らの殆どがマケドニア人であるため、少数民族系の踊りは次回に期待したいと思います。彼らは熱い心で気持ちを語っています。
「私たちは、マケドニアとして初めて独立いたしました。私たちマケドニア人の愛唱した唄を聞いて下さい、そして、みんなで手を取り合う踊りを見て下さい。私たちのマケドニアを唄い踊ることができるこの喜びを、この舞台で、日本のみなさまと分かち合えることに感謝いたします。」
増永 哲男
マケドニア国立タネツ民族舞踊団 は1949年旧ユーゴスラビアの首都スコピエにて発足し、旧ユーゴスラビアの3大舞踊団(コロー民族舞踊団・ベオグラード・来日2回、ラド民族舞踊団・ザグレブ・来日1回)として長年活躍しました。第1次世界大戦後、マケドニアはギリシア北部、ブルガリア西部ピリン地方と今のマケドニアに3分割されました。今、激動の旧ユーゴスラビアから独立したマケドニアに、分割された地方に住むマケドニア民族の独立の求心力は今後しばらく目が離せません。
紀元前アレキサンダー率いる王国からの流れを伝えるバルカンの音楽と踊りを、美しくも哀しいメロディーと強烈な太鼓のリズムで展開いたします。舞踊手32人 音楽8人 舞台監督1人 技術2名、計43名の来日となりました。
The Macedonian State Ensemble
for Folk Songs and Dances - TANEC
UL. V.Madjukovski 7
Skopje Republic of Macedonia
Director Dimitrija RISTOVSKI
Tel.Fax. 091-415-043
マケドニアの踊りの素晴しさ、精神性の高さ
タネツ来日に寄せて 待望の、あのタネツが来日公演をすると聞いてびっくりすると同時に、新たな感動を覚えました。あの素晴しい踊りと音楽を日本で見たり、聞いたりできるのですから。
マケドニアの踊りの素晴しさ、精神性の高さを見たのは、とあるフェスティバルで見たおばあさんでした。村から出てきたままの普通の洋服を着、杖をついて他の数人と共に舞台に登場しました。ただ一緒に出てきたと思っていましたが、なんと踊りの列の先頭にたち、スカーフを振りながら踊り出しました。曲がっていた背筋も伸び、数人を従え、誇りに満ちた踊りを見せてくれ、まさに本当の民俗舞踊の感動を与えてくれました。退場するときは、踊っていなかったように腰を曲げ、杖をついて歩いていました。もちろん、会場からは大きな拍手があったのは言うまでもありません。このような、踊りの雰囲気も、今回の公演での大きな見所ではないかと思います。ほかにも鮮やかな衣装とバラエティに富んだ楽器で、マケドニアの文化の真髄を見せてくれることでしょう。
マケドニアは、東西の文化の十字路として他国との試練と忍耐の歴史を持っています。そのため、さまざまな文化的要素がまじり合い、独特の文化を育ててきました。例えば、タパンという大きな太鼓から繰り出される意表をついたリズムとそれに合わせた踊りとが絶妙のバランスを見せてくれます。音楽的にも意表をついたリズムが見られ、マケドニア独特の世界を見せてくれることと思います。
私事で恐縮ですが、永い闘病生活にも光が見えてきて、再び元気に活動できる日が来そうです。この時期に私を支えてくれた増永氏を始め、多くの方々に紙面をお借りして感謝の意を捧げたいと思います。
郷民俗舞踊研究所 所長
民俗舞踊家 郷 成仲
複雑なリズム、「ため」のあるリズム
マケドニア国立舞踊団タネツは、1949年に創始され、1950年6月に初コンサートを開いています。1948年から1950年は、旧ユーゴスラヴィヤで国立の舞踊団「コロー」や「ラド」などが次々に生まれた時期でもありました。第二次世界大戦直後より、都市部ではいくつものダンスグループが生まれはじめており、それらは、各々の出身地の踊りを競い合う(Cプロの様な)形からはじまって、お互いに教え合ってレパートリーが作られていきました。タネツは、これ等のグループからの選抜メンバーではじめられたので、当初のレパートリーとしては、コレオグラフされていないナチュラルなフォーダンスそのものを踊っていました。
本来マケドニアは、その起伏に富んだ土地柄からか、複雑なリズム、しかも規則的にきざむだけでなく、「ため」のある深いリズムをもっているので、当時のレパートリーによるコンサートでも各国で大好評を博しました。 1953年よりユーゴスラビアの一員として他共和国の歌、踊りを取り入れ始め、1960年代から70年代に組曲としてのレパートリーが確立しています。
民俗舞踊研究家 先崎廣伸
PROGRAM =A=
1. NEVESTINSKO
ネヴェスティンスコは、ネヴェスタ(花嫁)の踊り。花嫁を先頭に親族の女性が連なって踊る。マケドニア西部から南部にかけて、ミヤクと呼ばれる人々が住んでいるが、ガリチニク、デバル、ラザロポレ地方の、彼らの婚姻の習慣をベースにして組立てられている。
ラザロポレの重厚な民俗衣装(花嫁衣装は装飾品を含めると30kg 以上になると言われる。)で踊られるが、ステップのパターンは、同じミヤクの人々のものであるが、ビトラ地方のものだそうである。
振付、音楽共にTrajko Prokopiev
2. TESKOTO
テシュコトは重いとか難しいといった意味を持つ踊りで、マケドニア各地に見られるが、西マケドニア、ラザロポレのこの踊りは、特に有名なもので、単にテシュコトと言うとこの踊りを示す事になっている。 ラザロポレ 出身の2人の名ダンサーがメンバーになった事もあって、タネツの最も重要なレパートリーの一つとなっている。 この種の踊りの特にゆったりとした前半部においては、大体のパターンはあるものの、組立からリズムに至るまで、リーダーの即興であり、リーダーの動きに他のダンサーが付き従うのは当然の事として、演奏もそれに応じて変化していく。2度と同じ踊りが演じられる事の無いのが特徴である。 精神の緊張と”ため”の必要な、名前どうりの”難しい踊り”である。太鼓の上のソロを含む重厚な前半部と軽快なスクワット、ターンのフィナーレは圧巻である。 ラザロポレ 出身のDojcin Matevski のアレンジ、音楽はオリジナルのフォークロア
3. MARIOVSKA TRESENICA
マリオヴスカ・トレセニーツァは、チスト・ポネデルニクと呼ばれるお掃除の日の年中行事に由来する。この日、マリオヴォ地方の婦人達は注意深く冬物一切を片付ける。踊りに見られる手の上げ下げや、体の細かいシェイキングは、良き主婦はかようによく働くということを示すのだそうだ。 マケドニア民謡として世界中にヒットした、マケドンスコ・デヴォイチェの作者でもある Jonce Hristovski の振付、Gorgi Dimcevski 音楽。
4. OSOGOVKA
東マケドニアのオソゴフ山地の踊りで、軽快なフットワークとシャープなスタイルの男踊りである。本来ガイダと呼ばれる、バグ・パイプで演奏されるが、最近は他楽器の伴奏を伴う事も多い。 2つのグループが交互に競い合って踊り、クライマックスで、何が起こるのか見てからのお楽しみ。 Mitko Aleksov 振付、Gorgi Dimcevski 音楽。
5. SEDENKA
セデンカは、農閑期における集団見合の慣習である。村の娘達が、広場に集まり、糸紡ぎ、編物等の手仕事をしながら、雑談したり歌ったりして待っていると、近隣の村から若者達が集まってくる。得意の歌や踊りで競い合い、お互いの気を惹く。 Gligor Vasilev の振付、Trajko Prokopiev 音楽。
6. KALAJDZISKO
カライジは、いかけ屋のことである。専門職で人手も足りなかったことから、一座を組んで村々を行商してまわっていた。村に着くと、決まり文句の呼び声をかけながら中央広場へと進み、店開きする。仕事が終わると、自慢の踊りを披露することもあったようだ。踊りには、金属磨きの動作が伝統的に含まれる。 マケドニア・フォークダンスのティーチャーとしても世界的に有名な、Atanas Kolarovski の振付、Trajko Prokopiev 音楽。
7. SREDSELO
スレッドセロは村の中央で、といった意味。 野良仕事を終えた娘たちは、陶器の壷を持って村の中央の共同井戸に水汲みに集まる。このひとときは、厳しい労働の後の憩いの時でもあり、歌ったり踊ったりしていると、青年たちも集まって来て踊りに加わり........... Todor Jovanov 振付、音楽。
8. DRACEVKA
ドラチェヴォはスコピエ南部の村落で、民俗音楽、舞踊の盛んな所として知られる。マケドニアの村々では、それぞれ聖人にちなんだ、別個の祝祭日を持ち、又、春祭りや、収穫祭、集団見合や嫁取りの儀式など、年中行事の度に、歌い、踊り、呑みかつ騒ぐ。ドラチェヴォ地区のそのような村祭りの様子を中心に、スコピエ地方の8つの踊りで構成している。 Atanas Kolarovski 振付、Trajko Prokopiev 音楽。
9. MAKEDONSKI PESNI
10. PIRINSKO PROLETNO CVEKE
ピリン山地はマケドニア地方に属すが、ブルガリア領である。政治問題を論じるつもりは無いが、文化の流れから考える時、音楽、舞踊共にその特殊性、共通性から外す事の出来ない地域となる。ブルガリアの舞踊団も多分同じような理由から、ヴァルダラ河流域の歌や踊りを取り上げている。ピリンの春を表現した踊りで、他の振付も知られているが、今回は、Stojce Karanfilov 振付、Stojance Kostovski 音楽のものを。
PROGRAM =B=
1. SOLUNKA
ソルンはサロニカ、現在のテッサロニキの事であり、ギリシャのマケドニア地方に属す。この地域はマケドニア語を話す人々と、ギリシャ語を話す人々が混在しており、同じ踊りを違う名前で踊っていたりする。 ソルンカはソルンの娘といった意味で、ソルンを中心とした、エゲイスカマケドニアの踊りで構成されている。 Blagoja Filipovski 振付、Gorgi Dimcevski 音楽。
2. MAKEDONSKI PESNI
3. CIFTE CAMCE
チフテ・チャムチェは2つのカップと言う意味をもつトルコ語で、踊りの後半2人ずつの組み踊りになる部分からの名前と思われる。 ビトラの踊りとして知られるが、大変に古い踊りらしく、はっきりした起源は解かっていない。1948年にビトラのジプシーのグループによって踊られた記録が残っている。踊りはビトラのNuri Osmanov によりもたらされ、後にDojcin Matevski によってアレンジを加えられている。衣装はビトラ都市部のトルコ人のもので、勇壮な戦いの踊りである。 Dojcin Matevski アレンジ、音楽はオリジナルのフォークロア。
4. VODARKI
ヴォダルキのヴォダは水の事。野良仕事を終えた女たちは、陶器の壷を持って村の中央の共同井戸に水汲みに集まる。井戸のまわりに集まった女達のする事は、これは洋の東西を問わず、井戸端会議である。村のゴシップや町の噂話に花が咲く。習慣としては、マケドニアのどの地域のもの、と特定できるものではないが、歌と踊りは、東マケドニアのものでまとめてある。 Blaze Velevski 振付、Gorgi Dimcevski 音楽。
5. MAKEDONSKI MUZIKA 6. SEDENKA
セデンカは、農閑期における集団見合の慣習である。村の娘達が、広場に集まり、糸紡ぎ、編物等の手仕事をしながら、雑談したり歌ったりして待っていると、近隣の村から若者達が集まってくる。得意の歌や踊りで競い合い、お互いの気を惹く。 Gligor Vasilev の振付、Trajko Prokopiev 音楽。
7. KALAJDZISKO
カライジは、いかけ屋のことである。専門職で人手も足りなかったことから、一座を組んで村々を行商してまわっていた。村に着くと、決まり文句の呼び声をかけながら中央広場へと進み、店開きする。仕事が終わると、自慢の踊りを披露することもあったようだ。踊りには、金属磨きの動作が伝統的に含まれる。 Atanas Kolarovski の振付、Trajko Prokopiev 音楽。
8. TROPNALO ORO
トロプナロ・オロは、スタンピング・ダンスといった意味。マケドニア中央部を流れるヴァルダラ河は、農業にも交通にも要となってきた。布を織っても、それを晒すのはヴァルダラ河の流れであり、小さな流れもそのほとんどはヴァルダラ河の支流である。当然その本流を中心に一つの文化圏が形成される。ヴァルダラ流域の歌と踊りで構成。 Dusko Georgievski 振付、Gorgi Dimcevski 音楽。
9. MAKEDONSKI ZENSKI PESNI
10. SVADBA
スヴァトバは結婚式の事。本来この地方の結婚式は、3日~一週間かかるものであるが、男性親族だけの集まり、女性親族だけの集まり、親族一同、近在の有力者も招いての大きな集いなどあり、踊りも花嫁の踊り、花婿の踊り、花嫁の母の踊り、介添人の踊りなど、決まったリーダーによってのみ踊られる踊りなど多数知られる。スコピエを中心とした地域の結婚式の集いの歌い踊りの有様で構成。 Blagoja Filipovski 振付、Radomir Gelevski, Tome Cvetkov 音楽。
11. DRACEVKA
ドラチェヴォはスコピエ南部の村落で、民俗音楽、舞踊の盛んな所として知られる。マケドニアの村々では、それぞれ聖人にちなんだ、別個の祝祭日を持ち、又、春祭りや、収穫祭、集団見合や嫁取りの儀式など、年中行事の度に、歌い、踊り、呑みかつ騒ぐ。ドラチェヴォ地区のそのような村祭りの様子を中心に、スコピエ地方の8つの踊りで構成している。 Atanas Kolarovski 振付、Trajko Prokopiev 音楽。
Director:
Dimitrija Ristovski
Musician:
Boris Kolarovski
Radomir Gelevski
Dragutin Simonovski
Kazim Idriz
Zeljo Destanovski
Lazo Trpkovski
Stojance Kostovski
Kiro Zifovski
Dimce Stojanovski
Ljupco Protugerov
Dragan Stojcev
Dancer
Ljube Angelevski
Vladimir Janevski
Ljupco Manevski
Goce Bojkovski
Stojance Pavlovski
Aleksandar Georgievski
Oliver Petrov
Kire Malinovski
Erik Belimov
Filip Trajkovski
Dimitar Delev
Marjan Petkovski
Robert Oltovski
Goce Sazdov
Oliver KralevEdita Avtova
Zaklina Bajova
Aneta Dimitrieva
Liljana Karanovska
Daniela Kasapovska
Vesna Manevska
Iskra Petrovic
Kristina Pop-Gorceva
Biljana Trajkovska
Aneta Trpkovska
Svetlana Kiric
Zorica Stevkovska
Blagica Ilieva
Verica Stojceva
Natasa Grebenarova
Snezana Balkanska
1997年 平成9年
10月
11日土12:30Aグリ-ンホ-ル相模大野0427-49-2200
14日火19:00A武蔵野市民文化会館0422-54-8822
15日水14:00B水戸市民会館029-224-7521
16日木18:00A仙台泉文化創造センター022-375-3101
17日金18:00B苫小牧市文化会館0144-36-7823
19日日13:30B北海道青少年会館ホール011-581-1141
20日月13:30A札幌市教育文化会館011-271-5821
21日火18:30A盛岡劇場0196-22-2258
23日木13:00B長岡リリックホール0258-29-7711
24日金14:00A小杉町文化ホール0766-56-1515
25日土17:00B根上町総合文化会館0761-55-8550
30日木19:00A山梨県立県民文化ホール0552-28-9131
31日金14:00B名古屋港湾会館052-652-7151
11月
1日土18:30A伊勢市観光文化会館0596-28-5105
3日月14:00A岐阜市文化ホール058-262-6200
4日火18:00A島根県民会館0852-22-5503
5日水18:30B宗像ユリックス0940-37-1311
7日金18:30A佐賀市文化会館0952-32-3000
8日土14:00B鹿児島市民文化ホール099-257-8111
9日日14:00A大分県立芸術会館0975-52-0077
12日水13:30B徳山市文化会館0834-22-8787
14日金18:30A倉敷芸文館86-434-0400
15日土18:00A高槻現代劇場0726-71-9999
16日日14:00B芦屋市民センター ルナホール0797-31-4995
17日月18:30B浜松市福祉文化会館053-452-3131
19日水18:30A埼玉会館048-829-2471
20日木19:00B練馬文化センター03-3993-3311
21日金18:30A市川市文化会館0473-79-5111
22日土14:00B鎌倉芸術館0467-48-5500
23日日13:30A八王子市南大沢文化会館0426-79-2202
1877-78年ロシアの南下政策と衝突したオスマン帝国との露土戦争はロシアの勝利になり、マケドニア全域を含む大ブルガリア公国の創設を認めるサン・ステファノ条約が結ばれた。ロシアのバルカンへの影響力強化を恐れたイギリスやハプスブルグ帝国がこれに強く反対した。ビスマルクの仲介によりベルリン条約(1878)が新たに締結され、マケドニア地方はオスマン帝国に返還された。以後外交史上のマケドニア問題が形成される。マケドニア人の民族覚醒は1893年マケドニア人のマケドニアをスローガンに内部マケドニア革命組織(VMROヴムロ)が結成され、オスマントルコに対しイリンデン蜂起(1903年)を起こすが鎮圧される。このVMROは独立宣言に先立つ1990年の自由選挙で復活し、マケドニアの統一を唱え第1党になり、ギリシアとの緊張した国名論争になった(後述)。
オスマン帝国支配下の東方問題(19世紀後半20世紀はじめのマケドニアの帰属をめぐる問題)は、山の多いバルカン半島の中で良港テッサロニキ(マケドニア名ソルン)や肥沃な山平野と鉱物資源に恵まれていたマケドニアは、民族覚醒の遅れていたマケドニアよりも先にオスマン帝国から自治を達成したギリシア、セルビア、ブルガリアの領土的野心の対象となった。1)ギリシアは現ギリシア北部マケドニア地方はイスタンブルのギリシア正教主教座の管轄下にあり、正教徒でありスラヴ語を話す住民は自らをギリシア人と意識していると主張した。2)ブルガリアはマケドニア語はブルガリア語の一方言にすぎないと主張し、ブルガリア西南部マケドニア地方にブルガリア正教会主教代理座を設置し、ギリシアの影響が強かったマケドニア地方に宗教を通して勢力を拡大した。3)セルビアはマケドニア語の語彙がセルビア語と類似し、宗教上の習慣もマケドニアとセルビアは共通していると主張した。
1912-13年の第1次バルカン戦争で、オスマン帝国はロシアの支援を受けたバルカン連盟諸国に敗北し、オスマン帝国が撤退したマケドニアをめぐりギリシア・セルビア連合とブルガリアとの第2次バルカン戦争(1913年6月)がおこり、ギリシア・セルビア連合側が勝利し、ブカレスト条約が締結された。マケドニアはマケドニア地方の50%(エーゲ・マケドニア地方)をギリシアに、40%(ヴァルダル・マケドニア地方)をセルビアに、残り10%(ピリン・マケドニア地方)をブルガリアに、ほぼ現在に近い形で3分割された。この分割をめぐりブルガリア・セルビア対立は今も継続する。現在のマケドニアはこの分割でセルビアとなった部分であり、当時はセルビア人とみなされ自治も認められなかった。
セルビアは第1次世界大戦後、南スラヴ統一国家ユーゴスラヴィアを建国し、第2次大戦後、社会主義体制のもとの連邦制で、マケドニア人が民族として歴史上初めて自らのマケドニアの名の付く共和国を形成した。ブルガリアでは1960年までにブルガリア・マケドニア人が民族別統計から消えてしまう。1991年11月新憲法が制定され、ユーゴスラビアから独立が宣言された。93年国連加盟したマケドニアに唯一ギリシアはマケドニア共和国の国旗に使用されている古代マケドニア王朝の紋章を外すとともにマケドニアという国名はギリシア固有のものととの理由からマケドニアの国名を使用しないことを要求(国名論争)し紛糾した。
現在のマケドニア人は古代マケドニア人とは関係のないスラヴ系の民族である。約450年間のオスマン帝国時代に大量のトルコ人とアルバニア人が流入し、現在はマケドニア人64.6%、アルバニア人21%、トルコ人4.8%、ロマ人(ジプシー)2.7%、セルビア人2.2%、ムスリム人2%、ヴラフ(アルマニア)人、ブルガリア人の住む多民族国家である。バルカンとマケドニアの相関した複雑な歴史はバルカンの民族問題そのものである。現在のマケドニア問題の一つに国内のアルバニア人問題がある。92年VMROがアルバニア人追放方針を掲げたため両者の対立は内乱に近い紛争にまで発展し、現在もアルバニア人の武力反抗がニュースになっている。ボスニア内戦がマケドニアまで広がるのを恐れた国連はマケドニアへの国連保護軍の予防派兵を決議し、この予防展開は成果を上げている。
マケドニアは人口203万人(1991)、公用語はマケドニア語、首都はスコピエです。この9月に亡くなったマザ-・テレサはこのスコピエにアルバニア人の父とイタリア系の母の間に生まれました。1963年のスコピエ大地震で壊滅したこの町の主要な公共施設は日本の耐震技術とデザインで再興されました。
マケドニア国立タネツ民族舞踊団 は1949年旧ユーゴスラビア・マケドニア共和国首都スコピエにて発足し、旧ユーゴスラビアの3大舞踊団(コロー民族舞踊団・ベオグラード・来日2回、ラド民族舞踊団・ザグレブ・来日1回)として長く活躍しています。コロー・ラドの両舞踊団の来日公演の評価は高く、勝るとも劣らないほどのユーゴ国内評価のあったタネツ舞踊団の来日が長く待たれていました。今回が初来日となります。
参考文献 世界民族問題辞典(平凡社)